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 上高地線の歴史を振り返る上で、忘れてはならないのが浅間線の存在です。この路線は1925(大正14)年、当時の筑摩電気鉄道が松本=浅間温泉(5.2km)で営業を開始したもので、以後40年の間「松本のチンチン電車」として親しまれました。写真の電車は、元々島々線を走っていたもので、浅間線の開業に合わせ同線へ移ったものです。電車の前方には歩行者との万一の事故に備えた「救助網」が設けられました。

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明治から大正にかけての浅間温泉は「松本の奥座敷」として整備が進みました。アララギ派の歌人である正岡子規、伊藤左千夫や、与謝野晶子、若山牧水といった文人墨客も多く訪れ作品を残しています。また日本アルプスを望む温泉場として、登山者や探勝客に向けた誘客を展開しており、浅間線の開業は浅間温泉の興隆を後押しする形となりました。(絵葉書「浅間温泉全景」個人蔵)

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1932(昭和7)年に筑摩電気鉄道は松本電気鉄道に商号を変更します。この時期に発行されたパンフレットの多くには、上高地と浅間温泉がセットで紹介されています。この二つを自社路線(島々線・浅間線)で結んでいる故、これはごく当たり前のことと思われるかも知れません。一方で、山と温泉を巡る「観光圏」の確立を目指していた、当時の同社の戦略の一端を伺うこともできます。
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1936(昭和11)年の松本駅前

1930年代に入ると、大陸での満州事変勃発(1931年)と満州国建国宣言(1932年)、それに続く国際連盟の脱退(1933年)と国際情勢は緊迫。1937(昭和12)年には中国・盧溝橋での軍事衝突をきっかけに日中戦争が勃発、我が国は戦争の時代を迎えます。国内でも国家総動員法の公布(1938年)新体制運動の推進(1940年)など軍事体制が強まる中、上高地観光も無縁ではなく、当時のパンフレットにも「体位向上」「心身修練」「国策線を上高地へ」といった時勢を反映したスローガンが用いられる様になります。

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1940年(昭和15)年発行のパンフレット(個人蔵)

1939年(昭和14)年には第二次世界大戦が開戦。翌1940年(昭和15)年12月には、太平洋戦争が始まり米英との総力戦に突入します。防諜上の理由から、連帯裏を三軒屋に、時局に相応しくないとの理由から、下浅間温泉が下浅間、浅間温泉が浅間…と、浅間線の停留所名が改称されたのもこの時期です。島々=上高地間のバスも運行は昭和16年ごろまで続いた様ですが、ガソリンの統制、戦局の悪化により休止せざるを得ませんでした。

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営業最終日1964(昭和39)年3月31日の浅間線横田駅。

戦後の混乱の中で、浅間線の輸送人員は年間599万人(昭和21年度)と過去最高を記録します。しかし、ガソリン供給の安定と共にバスの運行が回復すると利用者の減少が始まりました。1955(昭和30)年には、松本市による軌道撤去条例が可決。市街地の道路渋滞の原因や都市計画の支障となることが大きな理由でした。松本電気鉄道としてもこの時期バス事業に力を入れていたこともあり、路線の廃止を決断。浅間線は1964年(昭和39)年3月31日を以てその歴史に幕を下ろすことになりました。

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浅間温泉に設けられたバスターミナルも今はない(2008年撮影)

現在、浅間温泉の年間の観光客数は60万人(ピークは1993年度の100万人)地域の少子高齢化による後継者不足を背景に、温泉旅館の数も減少傾向にあります。歴史に”もし”は禁句ですが「浅間線が残っていたら…」とは浅間温泉在住の知人の言です。(※1)交通インフラの存廃は決して目先の問題ではなく、数十年後の地域の未来も左右することを肝に命じたいものです。


※1:浅間線の存廃問題が浮上した当時、浅間温泉がある本郷村(現:松本市)は廃止反対の立場を取りました。ところがその後の村長選挙で廃止容認派が僅差で当選。のちの廃止につながったとされています。