来たる2021年10月2日に開業100周年を迎えるアルピコ交通上高地線。弊通信では "山ゆき電車"としての歩みを中心に、数回に分けてこの100年の歴史を振り返って参ります。なお、記事中は筆者のごく私的な資料収集と研究に基づいたものであり、アルピコ交通株式会社公式のものではありません。悪しからずご了承下さい。
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配電会社『東筑電気株式会社』の絵葉書と上條信(かみじょう・しん)

アルピコ交通の前身、筑摩鐵道が創立されたのは1920(大正9)年のことです。大正期の我が国は軽便鉄道法・軽便鉄道補助法の公布を背景に全国的な私鉄ブームが勃興。各地の政治家・実業家が次々と新しい鉄道会社を創立し、地域の近代化を目指して線路を伸ばしてゆきました。筑摩鐵道を興した上條信もまた新村の出身の政治家・実業家であり、県や国の代議士を務める傍ら、配電事業、新聞の発行など地域密着の事業を展開していました。

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焼岳。麓の大正池は1915(大正4)年6月6日の大規模な噴火によって生まれた。

そんな上條信が新たに鉄道事業を手掛けるに当たって、地域輸送の近代化と並ぶ重要なテーマがありました。それは、日本アルプス・上高地の観光開発です。(※1)現在は国内有数の山岳景勝地として知られる上高地ですが、登山者や探勝目的で人々が訪れるようになったのは、明治中期以降のこと。1915(大正4)年には焼岳の噴火に伴い大正池が出現しています。その上高地への松本側からの入山ルートは、後述の島々ほか、梓川沿いを遡るもの、稲核を起点に徒歩で山を越えて上高地に入山するものがありました。なお、現在の車道の開通は1927(昭和2)年とされており、上高地へのバス乗り入れはそれから暫く後の1933(昭和8)年を待たねばなりません。

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1919(大正8)年に発行された『日本北アルプス登路概念図』(一部)

ところで、上條信は筑摩鐵道以前にも2度、鉄道の敷設を計画しています。1回目は1915(大正4)年に出願した安筑軽便鉄道計画です。これは松本から新村、波多、島々を経て稲核(いねこき)へ至る路線でした。2回目は3年後の1918(大正7)年に出願した安曇鉄道でこれもまた松本から稲核に至る路線でした。これらの出願はいずれも却下されています。


上條らが2度の出願で稲核を終点としたのは、稲核が大正以前からの上高地への登山口であったことに由来すると考えられます。稲核の標高は900m.余り、そこから7.5km離れた現在の新島々駅は標高689m.ですから、両地点の標高差は200m.余り。平均して25パーミルの勾配となります。現在の我が国の鉄道が、原則として25パーミルを限度に建設されている点を考慮すると中々の急坂です。またV字渓谷で暴れ川として知られていた当時の梓川に沿って線路を敷く計画には少々難があったようです。

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現在の島々宿 多くの登山家・文化人がここから徳本峠を越え上高地に入った。

1919(大正8)年に出された「筑摩鐵道」計画では、松本-龍島(竜島)19km.の鉄道敷設が出願されました。終点の龍島は島々の対岸に当たりますが、これは島々が元々野麦街道の宿場として、明治以降は上高地入山・日本アルプス登山の拠点として発展してきたことが背景にあるようです。この、三度目の正直とも言える計画は無事に認可を受け、翌1920年(大正9)年の筑摩鐵道創立にようやく漕ぎ着けることとなりました。


《日本アルプス縦断鉄道と筑摩鐵道》

インターネット上の情報として「筑摩鐵道は松本と高山を結ぶことを目的に建設が始まった」なる記述を目にすることがあります。筆者も様々な文献を当たりましたが、少なくとも筑摩鐵道については「上高地の観光開発」と「河西部の地域輸送の近代化」の2つが主たる目的であり(※1)、松本=高山連絡は目的に含まれていなかったと考えています。

一方、信州と飛騨を鉄道で結ぶ計画は、明治から昭和にかけて度々持ち上がり、特に1921(大正10)年には『日本アルプス縦断鉄道』の見出しで鉄道省が実地踏査に乗り出した…との新聞報道もありました。また、昭和50年代には当時の国鉄神岡線(後の神岡鉄道/2005年廃止)と上高地線を結んで「信富線」とする計画が検討されたことも事実です。先の「筑摩鐵道は松本と高山を結ぶことを目的に建設が始まった」は、こうした前後の歴史的事実と、大正ロマンがない混ぜになって発生した言説と考えられます。


(※1)『筑摩鐵道設立趣意書』には「我河西地方ハ幸ニ電灯ノ供給ハ得タルモ、未ダ以テ交通機関ノ恩典ニ浴セザルヲ甚ダ遺憾トス。是レ吾人ガ多年ノ宿望タル筑摩鐵道敷設ヲ目論ム理由タルナリ。」「梓川上流上高地を中心トシ(中略)将来ハ内外人ヲ招致スベキ世界的享楽地ト為サントシ、目下計画中ニアリ。」と記載されています。