白かえる通信Ⅱ=きて みて はっけん 上高地線=

信州の城下町松本から 山の玄関口新島々へ〜アルピコ交通上高地線の話題をお送りします。

2021年02月

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2月は沿線を訪れる機会が余りなく、あっても今度は雨か曇りかの天気に当たるばかりで、乗って撮って歩くのが好きな筆者としては少々消化不良気味な月となりました。この日の松本も一日曇りの天気。西松本駅近く、田川のほとりにある踏切で電車を待っているとモハ3002+クハ3001の松本ゆき電車がやってきました。
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松本ゆき電車を見送った足で渚駅へ向かいます。この2月には、同駅前の『エフエフSHOPアサワ』さんが閉店するという寂しいニュースもありました。名物のワッフルは市内外のファンも多く、その一人である上高地線イメージキャラクター渕東なぎささんもどこかもの悲し気...。店舗は今後コインランドリーになるそうです。
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松本からの折り返し電車に乗車。車内には3月13日のダイヤ改正のおしらせが掲示されていました。今回のダイヤ改正は、JRや大手私鉄を中心に、終電時刻の繰り上げ、始発時刻の繰り下げ、運行本数の見直し...等、昨今の社会情勢を反映した変化が注目されています。但し、上高地線については今年もダイヤ改正を行わず、始発(新島々5:44→松本6:14)から終電(松本23:07→新島々23:37)まで、現行の1日26往復(日中毎時1,2本)での運行を確保します。

3月の予定としてもう一点「令和3年3月3日」を迎えることにちなんだ『上高地線3並び記念きっぷセット』が同日9時より新島々・波田・新村の各駅で販売されます。沿線で唯一駅名に"3"のつく"三溝駅"の入場券や同駅発着の乗車券3枚と購入記念証、台紙のセットです。台紙の写真は春の三溝駅を写したもので、昨年のカレンダーに続き、拙作を採用いただきました。みなさまこの機会に是非お求めください。

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 上高地線の歴史を振り返る上で、忘れてはならないのが浅間線の存在です。この路線は1925(大正14)年、当時の筑摩電気鉄道が松本=浅間温泉(5.2km)で営業を開始したもので、以後40年の間「松本のチンチン電車」として親しまれました。写真の電車は、元々島々線を走っていたもので、浅間線の開業に合わせ同線へ移ったものです。電車の前方には歩行者との万一の事故に備えた「救助網」が設けられました。

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明治から大正にかけての浅間温泉は「松本の奥座敷」として整備が進みました。アララギ派の歌人である正岡子規、伊藤左千夫や、与謝野晶子、若山牧水といった文人墨客も多く訪れ作品を残しています。また日本アルプスを望む温泉場として、登山者や探勝客に向けた誘客を展開しており、浅間線の開業は浅間温泉の興隆を後押しする形となりました。(絵葉書「浅間温泉全景」個人蔵)

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1932(昭和7)年に筑摩電気鉄道は松本電気鉄道に商号を変更します。この時期に発行されたパンフレットの多くには、上高地と浅間温泉がセットで紹介されています。この二つを自社路線(島々線・浅間線)で結んでいる故、これはごく当たり前のことと思われるかも知れません。一方で、山と温泉を巡る「観光圏」の確立を目指していた、当時の同社の戦略の一端を伺うこともできます。
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1936(昭和11)年の松本駅前

1930年代に入ると、大陸での満州事変勃発(1931年)と満州国建国宣言(1932年)、それに続く国際連盟の脱退(1933年)と国際情勢は緊迫。1937(昭和12)年には中国・盧溝橋での軍事衝突をきっかけに日中戦争が勃発、我が国は戦争の時代を迎えます。国内でも国家総動員法の公布(1938年)新体制運動の推進(1940年)など軍事体制が強まる中、上高地観光も無縁ではなく、当時のパンフレットにも「体位向上」「心身修練」「国策線を上高地へ」といった時勢を反映したスローガンが用いられる様になります。

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1940年(昭和15)年発行のパンフレット(個人蔵)

1939年(昭和14)年には第二次世界大戦が開戦。翌1940年(昭和15)年12月には、太平洋戦争が始まり米英との総力戦に突入します。防諜上の理由から、連帯裏を三軒屋に、時局に相応しくないとの理由から、下浅間温泉が下浅間、浅間温泉が浅間…と、浅間線の停留所名が改称されたのもこの時期です。島々=上高地間のバスも運行は昭和16年ごろまで続いた様ですが、ガソリンの統制、戦局の悪化により休止せざるを得ませんでした。

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営業最終日1964(昭和39)年3月31日の浅間線横田駅。

戦後の混乱の中で、浅間線の輸送人員は年間599万人(昭和21年度)と過去最高を記録します。しかし、ガソリン供給の安定と共にバスの運行が回復すると利用者の減少が始まりました。1955(昭和30)年には、松本市による軌道撤去条例が可決。市街地の道路渋滞の原因や都市計画の支障となることが大きな理由でした。松本電気鉄道としてもこの時期バス事業に力を入れていたこともあり、路線の廃止を決断。浅間線は1964年(昭和39)年3月31日を以てその歴史に幕を下ろすことになりました。

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浅間温泉に設けられたバスターミナルも今はない(2008年撮影)

現在、浅間温泉の年間の観光客数は60万人(ピークは1993年度の100万人)地域の少子高齢化による後継者不足を背景に、温泉旅館の数も減少傾向にあります。歴史に”もし”は禁句ですが「浅間線が残っていたら…」とは浅間温泉在住の知人の言です。(※1)交通インフラの存廃は決して目先の問題ではなく、数十年後の地域の未来も左右することを肝に命じたいものです。


※1:浅間線の存廃問題が浮上した当時、浅間温泉がある本郷村(現:松本市)は廃止反対の立場を取りました。ところがその後の村長選挙で廃止容認派が僅差で当選。のちの廃止につながったとされています。

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2週間ぶりの上高地線沿線はあいにくの雨模様。新村駅のパークアンドライド駐車場を利用し、電車で松本市街地へ向かいました。新村駅の駐車場は松本市が設置したもので収容台数は50台(普通車)料金は無料です。現在は、北部の梓川地区や南部の和田地区にお住まいの方の通勤に利用されています。
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電車に乗る前に沿線に出て少しだけ撮影。屋敷林をバックに走る新島々ゆき電車です。屋敷林は風雪から家屋敷を守ったり、燃料として使う薪を採るために設けられたものです。長野県内では安曇野のものが有名ですが、自然条件を同じくする筑摩野(梓川より南側の地域)でもみることができます。(19列車 モハ3007+クハ3008)
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この新村-三溝の駅間は先代の5000形が走っていた頃から、鉄道雑誌などで撮影地として紹介されてきました。今でも電車に乗っていると、クルマを停めて電車にカメラを向けている方を時々見掛けます。ただ、筆者は「乗って降りて撮る」スタイルを基本としているので、中々足が向きません。(22列車 クハ3002+モハ3001)
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足が向かないもう一つの理由は松本波田道路(中部縦貫道)の建設です。完成時期は未定となっていますが、近い将来には高さ5~10m.幅20m.ほどの構造物がこの場所にできる予定です。またここ新村ではインターチェンジの整備も検討されています。筆者が写真を撮りに出掛け、弊通信で記事にする理由は、読者の方に実際に現地に足を運んでいただきたいからで、数年後には確実に見られなくなる風景を紹介する道理はないというものです。

この道路計画自体に、住民でもない筆者はとやかくいう立場にありませんが、地域住民の反対と政治的判断により12年間計画が中断された過去があること、波田から先の区間については未だ事業化の見通しが立っていないこと、計画自体が昭和62年(今から36年前)の第四次全国総合開発計画、つまり現在とは全く異なる社会状況の下で立てられたものでもあることは客観的事実として書き添えておきたいと思います。

1922(大正11)年の松本=島々間15.7km全通により本格的に動き出した筑摩電気鉄道。会社設立の目的である日本アルプス・上高地の観光開発はその後どのように進んだのでしょうか。

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松本から上高地方面へのバス(乗合自動車)運行は、島々線開業に先立つ1918(大正7)年から松本=奈川渡間で始まりました。その後、1929(昭和4)年には中ノ湯までの路線が開通、1932(昭和8)年には遂に上高地(大正池)への乗り入れが実現します。1918(大正7)に運行が始まった松本=奈川渡間の路線は、上条信が代表を務める筑摩自動車株式会社が運行を行っていましたが、同社は1930(昭和5)年に松本自動車株式会社(1920年創立)と合併、松筑自動車株式会社として、上高地はもとより、松本市内・近郊・諏訪方面へのバス運行を広く手掛けるようになります。

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1931(昭和6)年発行の沿線案内図(個人蔵)

この頃の日本アルプス・上高地をめぐる動きとして、1927(昭和2)年にあった幾つかの出来事に触れておきましょう。一つ目は『日本八景』への入選です。これは東京日日新聞・大阪毎日新聞(現:毎日新聞)が主催、当時の鉄道省が後援した観光キャンペーンで、新しい時代に相応しい勝景を8つの部門から選定したものです。読者投票と文化人らによる選定の結果、上高地は渓谷の部で一等に当選。その知名度を飛躍的に高めることとなりました。
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 もう一点は、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)の北アルプス登山です。「スポーツの宮様」としても知られる秩父宮雍仁親王はこの年の8月、2度目の北アルプス登山に訪れ、その帰途で島々線を利用されました。当時、案内人として同行した登山家の木暮理太郎は「これから筑摩鐵道の島々駅までは三里半を超えている。そして六時には御迎の電車が其処で殿下の御到着を申し上げている筈である…(中略)…御予定より三十分も早くお着きになった。」とその著書『山の憶い出』に書き残しています。

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現在のようにテレビやインターネットのない時代、上高地のような新しい観光地の宣伝に一役買ったのが、新聞や書籍の存在でした。先に触れた『日本八景』や秩父宮雍仁親王の北アルプス登山が新聞、書籍で紹介されることで、「上高地」の名が人々の間に広まっていったと考えられます。


筑摩電気鐵道も1928(昭和3)年に『上高地』の題で一冊の本を発行しています。これは上高地に関する古今の紀行文・随筆を集めたもので、幸田露伴、吉田絃二郎、杉村楚人冠、下村海南、窪田空穂といった当時の文化人の文章が収められています。

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『上高地帝国ホテル』現在の建物は1977(昭和52)年からの2代目。

こうした「上高地」の知名度・関心の高まりに前後して、1927(昭和2)年には地域一帯が国名勝・天然記念物に、1934(昭和9)年には上高地を中心とする北アルプス一帯が中部山岳国立公園に指定されました。また来訪者を受け入れるための県営ホテル(現:上高地帝国ホテル)が1933(昭和8)年より営業を開始。1935(昭和10)年には河童橋までのバス路線が開通し、現在の上高地観光の原型が完成します。




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この日のラストはお馴染みの奈良井川鉄橋へ。電車を待っていると通り掛かりのおじいさんに「写真ですか?」と話し掛けられました。会話の中で上高地線が今年開業100周年を迎えることを伝えると「へぇ!そんなに!」と驚かれた様子でしたが、聞けばその方自身は昭和2(1927)年生まれの93歳。年齢を感じさせないかくしゃくたる様子にこちらが驚いてしまいました。
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同じ列車を縦構図で捉えた写真もどうぞ。ところで、この日はなぎさTRAINとモハ10型リバイバルカラー列車が日中走る予定でしたが、思いがけずオリジナルカラーがやって来ました。上高地線に通い始めて10年ほどですが、ここ1、2年はこのような突発的な車両交換に遭遇する機会が増えたように感じます。

(2枚とも:18列車/モハ3001+クハ3002)
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3000形電車も上高地線で走り始めて早20年。京王井の頭線時代を含めると既に車齢50年を経た車両もあり、安定した運行のためにも代替車の導入が必要な時期を迎えています。なお、2011年度から始まった施設更新事業では、最終年度に当たる2020年度に代替車の購入が計画されていましたが、昨今の社会情勢を受けて見送りとなっています。(参考リンク:松本市令和2年度補正予算の概要16ページ)


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大庭駅パークアンドライド駐車場の小変化

上高地線大庭駅に隣接する松本市のパークアンドライド駐車場ですが、昨年秋頃から料金体系が「入庫後15分まで無料」となりました。大庭駅付近の道路は狭く、送迎のための駐停車での利用を想定した措置と思われます。なお15分以上の利用の場合はこれまで通り入庫後24時間まで200円、以後24時間を超えるごとに200円が加算されるシステムとなっています。

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